□ クリニックへの通院付き添い、待ち時間が長くて大変な方
□ 退院後の、自宅療養にご不安を持たれている方
□ ご自宅で治療を希望される方
□ ご自宅での緩和ケアを希望される方
□ どこに相談したらいいか分からない方
□ 一人で通院ができなくなった方
□ ご希望される場所で過ごすことを諦めたくない方
□ 家族といっしょに、幸せにすごしたい方
□ 病気だけど、入院はしたくない方
□ 動けなくなっても、療養施設に入りたくない方
□ 生活のサポートを受けたい方
上記のお悩みが一つでも該当する方は、お一人で悩まず、
まず「いいじま訪問診療クリニック 世田谷区二子玉川」にご相談ください。
患者様・ご家族の自宅での生活療養の中で発生する「分からない事が分からない」を
病気の事だけでなく、様々な事象を解決するサポートを行います。
あなたやご家族のご希望に沿った診療と、丁寧でわかりやすい説明を行いますので、
ぜひ当院にご相談ください。
在宅医療(訪問診療)とは、通院が難しい患者さんに、医師がご自宅に定期的に(月2回~)訪問し病気の治療や予防を行うことです。
緊急時には24時間365日対応いたします。病状に応じて、連携病院への入院やご自宅での治療など適切に対応いたします。
まずは、ご相談ください。
□ 一人で通院が出来なくなった方
□ クリニックへの通院付き添い、待ち時間が長くて大変な方
□ 退院後での、自宅療養にご不安を持たれている方
□ ご自宅で治療を希望される方
□ ご自宅での緩和ケアを希望される方
□ 困ったときに相談しやすい、かかりつけ医をお探しの方
「今のところ、どうにか大丈夫」と思われていませんか?
どうしたら良いか分からず、お困りではないでしょうか?
転ばぬ先の杖は在宅医療では非常に重要です。自分の希望する場所での生活のために「杖」の役割ができれば幸いです。
相談いただければ、適切な在宅医療の提供をさせていただきます。
一度在宅診療専門医、指導医でもある当院に相談してください。
あなたの生活背景に合った治療を提案できると思います。
「家族が急変、
どうしたらいいの・・・」119番救急車と思われていませんか?
病は突然襲いかかるものです。予防医学も非常に重要ですが、患者様の急変はご家族の判断を鈍らせます。救急迅速判断を行える、救急専門医の院長がいる当院へ相談されませんか?
患者様の健康不安だけでなく、急変してしまい救急病院入院から、その先にある不安も解消できるよう努めていきます。
□ 笑顔で毎日を過ごしたい
□ 自分らしく過ごしたい
□ 自分や家族と向き合ってほしい
□ できるだけ元気でいたい
□ 住み慣れた自宅で毎日をおくりたい
□ 自分や家族の幸せを考えてくれる在宅医療を受けたい
□ 困ったときに頼りにするクリニックが欲しい
□ 数か所に渡るクリニック処方箋を一か所からもらいたい
いろんなご希望ありますよね・・・
初めての在宅医療クリニックに電話相談する時、勇気が必要ですよね・・・
「まだ、家族に迷惑かけたくないから」というふうに自己判断されていませんか?
ひょっとしたら、今すぐのお電話で、毎日の生活が楽になるかもしれません。
安心するために、在宅医療(訪問診療)クリニックである当院に、一度お電話してみませんか?。
あなたのかかりつけ医の選択肢に入れていただければ幸いです。
一緒に話し合いましょう。
あなた自身やあなたご家族の将来の幸せのために知ってもらいたいことがあります。
①お問い合わせ・相談
住み慣れたご自宅で過ごしたい。訪問診療を受けたいと思われたら、まずは直接お電話ください。
質問や相談のみでもかまいません。お気軽にご連絡をください。
②お問い合わせ・初回面談
患者様・ご家族様と初回面談をして、現在の状況をお伺いさせていただきます。
また、訪問診療の内容や費用などについても、ご説明させていただいています。
不安なこと、心配なことなどあれば、なんでもご質問ください。
③お問い合わせ・訪問診療開始
ご自宅にお伺いして、訪問診療を行います。
訪問日、時間については事前にお伝えさせていただきます。
日常的な診察と処置と処方
その他クリニックで行えない検査については連携病院に依頼して検査を行います。
患者様をお待たせしない画像検査のみの場合も連携クリニックにて対応可能です。
ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
「いいじま訪問診療クリニック 世田谷区二子玉川」院長の飯嶋将史です。
私は、
認知症のサポートから終末期医療における緩和ケアまで、様々な疾患に対し患者様、ご家族の納得のいく医療提供を目指します。
難しい話にはなりますが、医師、患者関係の中でSheard Decision making(SDM)といった「共同意思決定」という考え方が普及しております。まだ聞き覚えのない方や全くご存じない方もたくさんいらっしゃるとは思います。それだけプロセスとしてはなかなか普及はしていない現状です。
「共同意思決定」は患者、患者家族、医療者間で協力しながら、情報共有を働きかけ、治療方針のみでなく、患者様の生活を通して、様々な角度からよりよい生活を送るための決定を、患者様たちと一緒に考えながら確立していくプロセスのことになります。
患者様の意思決定やご家族の考えを重視し、また医療情報として患者様やご家族の選択肢を増やせるような情報提供のみならず、上に書きました通りSDMを重要視し、しっかりと患者様、ご家族に向き合った最善の医療、情報提供を行っていきたいと考えています。
飯嶋将史
東海大学医学部を卒業し、東海大学高度救命救急センターの救命救急科に入局。
救命救急医として、湘南の地でドクターヘリ業務、重症外傷対応、集中治療に従事してまいりました。
母の病をきっかけに、在宅診療の重要性を認識し在宅診療の門をたたきました。
在宅診療は、川崎、高津の地で地域医療に携わり、在宅診療専門として研鑽を積みました。
出身地:横浜
血液型:B型
趣 味:観葉植物 レザークラフト
日々の習慣:
興味が出たものを隙間時間で徹底的に調べる事
好きな食べ物:そば、すし エビ カニが好き
好きな言葉:
Be faithful in small things because it is in them that your strength lies.
「小さな事に忠実でありなさい。そこにあなたの強さが宿るのですから」
【院長の資格】
・日本専門医機構認定 救命救急専門医
・日本在宅医療連合学会認定専門医、指導医
・日本プライマリ・ケア連合学会認定医、指導医
・日本老年医学会認定 高齢者栄養認定医
・インフェクションコントロールドクター
・認知症サポート医
・厚生労働省認定がん緩和ケア講習会終了
・特定難病指定医
・身体障害者福祉法15条指定医
・JTEC、JMECC、ISLS、ICLS、ACLS、EMRGO等、各種コースインストラクション経験あり
【所属学会】
・日本救急医療学会
・日本在宅救急医学会
・日本在宅医療連合学会
・日本プライマリ・ケア連合学会
・日本緩和医療学会
・日本老年医学会
このたび、ご縁がありまして、世田谷区二子玉川に訪問診療クリニックを開業することになりました。
地域に根ざし、皆様に信頼される医療を提供していくことを目指して参ります。
当クリニックの使命は、何かにつけて自己決定といわれる現代医療において、患者様、ご家族様がよりBetterと思われる決定に必要な医療情報提供やサポートを行うこと。自己決定をする前に「何を決定すればよいか分からない」を解消します。また、当院のテーマは「愛」です。自分の家族のように考え、よりよい選択肢を選ぶサポートができれば幸いです。
私が在宅医療に興味を持つようになったきっかけは、大学病院で救急医として従事していた際、家族が大病に倒れたことです。家族の元へすぐに駆けつけることはできず、後悔した思い出があります。
当時、救命に重点を置いていた私は、退院後のケアや家族の絆が患者をよりよい生活に導くことにまだ気づいていませんでした。
自分が当事者となった事で、在宅診療の重要性を再認識し、これからの医療は在宅と救急の現場の迅速なリンクが重要と考え在宅診療の門をたたきました。
私が医師になった訳についてもお話しさせてください。
以下は私の簡単な自己紹介です。
<幼少期>
私は横浜の野毛地区で開業していた祖父の産婦人科クリニックで生まれました。幼少期はおばあちゃん子で祖母をとても愛していました。祖母は東京に住んでいましたが祖母が来るとずっと一緒にいた記憶があります。
<小学校>
小学校に入学すると、スポーツが好きで野球やバスケットボールなどチームスポーツをよくやっていました。当時は珍しかった帰国子女の編入を受け入れている小学校であったため、アメリカの文化や遊びも友人に教えてもらい、英会話教室のようになって楽しい時間を過ごしました。
<受験勉強中の父の急逝>
小学校高学年になり受験勉強が始まりました。受験競争の中、突然、父が当直業務中に急逝しました。当時の看護師長からの電話を自分がとった記憶があります。
母親に「急いで代わって」と連絡が、母親が目の前で泣き崩れた記憶は今でも忘れません。母、姉と駆けつけるも、父は亡くなって冷たくなっていました。その時の母の落胆した顔は今でも忘れません。今思うと、現在、私の年齢より若いときに、子供を二人抱えて夫が亡くなるのですから、母には苦労を掛けたと思います。
父親の死から何か身が入らなくなり、学業も進まずの状態になってしまいました。東海大浦安に受験をし、何とか受かりました。
<中学時代>
中学入学、場所は浦安、ディズニーランド付近。
横浜からは通いにくく東京の祖母の家に家族3人で引っ越してきました。おばあちゃん子は変わらず、東京での新生活が始まりました。
慣れない東京生活が始まり、多少の苦労はありましたが、中学時代はとても楽しかったです。教育お母さんであった母親も勉学に対し何も言わなくなり、、、。小学校から愛していたバスケットボール部に入ったのが転機にはなりました。
バスケ部はチームの重要さを実感した時期でした。メンバーは県選抜も含め所属しているのに県では勝てない時間が続きました。今でもSLAM DUNKの名言は痛感します。「お前のためにチームがあるんじゃない、チームのためにお前がいるんだ」、、、、。当時のバスケット選手のバイブルでもあった「SLAM DUNK」を擦り切れるほど読み込み、全力を傾け、勉強の出来はどんどん反比例していった学生生活を送りました。
始発で出かけ、朝授業の前にバスケット、昼、夕方にも部活の仲間と高めあったものです。幸い、良い友人や仲間にも恵まれましたし、人並みに恋をしたり、少し悪さをしたり、たくさんの人生経験をさせてもらいました。
<高校時代>
高校入学後もバスケ部に入りました。当時の東海大浦安はインターハイに行くかというくらい名門として知られている学校でした。当時英雄の田臥勇太(日本人で初めてアメリカのNBAに行ったプロバスケットボール選手)が東海大浦安のコートで日本代表合宿をするくらい高校はレベルが高かった学校でした。
今では笑い話ですが、プロバスケットボールの選手になりたいと思っていました。笑 今みたいにNBAに行ける時代でも全くなかったですが、、、。高校でバスケットに力を注ぐ中、その時、初めて母親から、「私の夢はあなたを医者にすること。」と一言言われました。 苦労を掛けた母の一言は私に衝撃を与えました。だってプロバスケット選手になりたかったのですから、バスケットをしながら医学部にはいけるか?の質問を顧問や担任に相談し、当時は鼻で笑われた記憶があります。
「絶対無理でしょ いけないよ医学部なんて」とも顧問や、担任から言われ悔しい思いをした記憶があります。その時に初めて父や祖父の話を母親から詳しく聞きました。家では父の亡くなった後は父の話はあまりせず、また、母や姉はあえてその話は避けていたようにも感じました。
母の意思もあり、今から医学部いけるかなと思いながら勉強を始めました。ストレス解消の運動を適宜入れた勉強スタイルに変わっていき、高校3年のころには学内での医学部推薦をもらえるところまで到達できました。
高校時代に母と改めて父の話をし、幼少期に見ていた父の後ろ姿を再度鮮明に思い出した記憶があり医学部進学を決めました。
<無力な自分>
大学時代も始まり、下宿生活がスタートしました。大学では新しいことにチャレンジをしたいという思いから、大学2年の時に自身の視野を広げるため、オクラホマ大学に留学し、海外での生活をスタートしました。
海外では自己主張は強く、自分で言い出さないと日本のようにサービスが行き届いているわけではないので留学当初は苦労しました。ただ、このアメリカの文化も自分を高める一つになり非常に有意義な時間でした。帰国後は勉学に励みました。決して優秀な成績ではなかったですが何とか卒業、医師国家試験の合格をかなえることができ、合格発表の時、母親が私の前で父が亡くなった以来、再び涙した姿は今でも忘れません。
<医師になり>
臨床研修も始まり最初は精神科になりたいと考えていました。当時ローテーションを行っていた救命救急科の指導医(この時の指導医は精神科の指導医の資格を持ち、救命救急の専門医も持っていた少し変わり種の先生でした。)に話すと救命救急専門医にまずなりなさいと、、、。「全身を診れないと精神は診れるものではない」という言葉、人の命を極限の状態から社会復帰させていくという医療に魅力を感じ救命救急の門をたたきました。
大学病院という患者の生命維持を優先した医療に当初魅力を感じ、必死に手技を磨き、教育機関病院という大学での勤務を非常に楽しく感じた毎日でした。そんな中、学年も上がり、今でもその時のことは鮮明に覚えていますが、手術に入っていた時に、OPE室ナースから「飯嶋先生 お母さまから電話です、、、。」と。
当時、事態を知らない自分は恥ずかしく感じました。職場に母親から連絡が来るなんてとも思ってしまいました。恥ずかしいから病院へは連絡をしないでくれよと言うと、左手が動かないの、、、と言ったのちに唸り声が聞こえ電話ができなくなり、母親は倒れていました。実家には誰もいないので、慌てて救急要請を大学病院からした思い出があります。
実家の近くの大学病院へ運ばれ一命はとりとめたものの、手術中ということもありすぐには駆けつけられず、姉に助けてもらいました。医者でない姉は「何をどう判断したらいいかわからない」状態で、涙していました。 私が大学に行けたのは夜23時頃。母親との数年ぶりの再会は気管挿管をされ、人工呼吸器に接続され、ベッドの上に横たわって意識のない状態でした。何とか一命をとりとめ、リハビリテーション病院へ転院し、その後、在宅復帰まで果たした母親でしたが、今までの仕事はできず、介護が必要な状況となりました。
遠方で勤務する私は家族の重要性を当時忘れ去っており、少しでも実家に顔を出さなかった自分を責めました。何か気づけることがあったのかもしれない、そう思う毎日でした。
姉とも数年ぶりの再会を果たし、母親の介護を含めた生活を送ることが決定しました。家族を介護する大変さ、この時にあまり目を向けてこなかった在宅診療の必要性、重要性を体感し、在宅診療の門をたたきました。
月日は流れ、母も病気が病気を呼び、あの大学病院勤務時代に搬送されてから約4年の月日で他界しました。 母が亡くなったのち、追うように、祖母も96歳でしたが母のもとに旅立っていきました。母も、祖母も在宅診療で対応を行い、看取っていくことができました。
二子玉川は家族を含め思い出深い地です。母、祖母とともに過ごした思い入れのある二子玉川から、在宅診療の可能性をさらに広げる活動を行いながら、困っている患者様たちに救急医療と在宅、プライマリケアの融合を体現し、困ったときだけでなく、いろいろな感情を共有し、最善の医療、家族ケアを提供できればと考えています。
分からないことを分からないままに。それが思いもよらぬ方向に進んでいく。
あの時少しでも理解を示せば、、、
あの時にやっておけば、、、
後悔先に立たずの事は人生で多いと思います。
乗り越えなければ生活に支障をきたすが、どうしたらいいかすら分からない。これが家で医療を受ける患者様たち、ご家族様たちの正直な心であると思います。
ネガティブな話ばかりですが
人間は常に分からないことをその場ですべて解決していく。そんな探求心の塊の方ばかりではないとおもいます。
自分で頑張ろうとしても、やはり教えてもらうことは、とっかかりの一つ。
そのとっかかりをどこで作るかが非常に重要と考えます。私も経験しましたが、家族と悲しい最後は、誰もが望まない形です。
最近でいえばコロナで最愛の伴侶を亡くした方もいらっしゃるかもしれない。搬送をしたくてもできない日本であった過去は変えられません。その時に息を吐いたのは間違いなく在宅医たちであった事も忘れてはなりません。ご自宅で困っている患者様のご自宅へ医師が助けに行く。入院加療ができずとも在宅でできることは多かったことを象徴した近年の3、4年でした。
「医は仁術」より在宅診療の可能性を模索し、プライマリケアからアージェントケアに至るまでの定期診療から緊急対応を充実化させ、さらに在宅診療と救急診療のリンクを今まで以上に実現化する地域づくりを目指します。
また、患者様に「先生また来てね」を励みとし患者様、ご家族様の「分からない」の解消を目指しつつ、最期に本音も言い合える信頼できるかかりつけ医を目標とし、日々精進してまいりたいと思います。
「人の愛を実感できる在宅診療をあなたのそばに」
いいじま訪問診療クリニック
院長 飯嶋将史
当院では、『かかりつけ医』機能を有する診療所として、以下を実施し、機能強化加算を算定しております。
〇 保健・福祉サービスの利用等に関する相談に応じます。
〇 健康診断の結果等の健康管理に係る相談に応じます。
〇 訪問診療を行っている患者様に対し、夜間、休日の問い合わせへの対応を致します。
〇 必要に応じて、専門医・専門医療機関を紹介します。
〇 かかりつけ医機能を有する医療機関は、医療機能情報提供システムにて検索できます。
当院は下記の病院と連携しております。
〒158-0094
東京都世田谷区玉川3-25-12
TEL:03-6432-7304
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